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執筆者の写真ナカジマ

正解したい欲求が加速する社会

更新日:2023年6月8日


つい先日の通勤途中、市内の自動車専用道路を老夫婦が歩いているのを見かけました。松江市内の大橋川をまたぐように架けられた自動車専用道路を歩行者が歩くことはもちろん違法で危険な行為です。それは誰もが知っていることです。


彼らが歩いているそばで車は速度を落として走行していました。見ているだけでヒヤヒヤする危険な状況。そこでふと「ありえることだろうなぁ」と思いました。





悪気がない老夫婦

仮に二人が旅行者で、且つ、自動車運転免許を持っていなかったとしたら。

松江市の道がよくわからない上、運転免許の講習を受けたことがなく道路交通法にも明るくない人だったとしたら。


おそらく誰かが慌てて通報し、警察が来て厳しく注意したのでしょう。でもそれが一体何になるのだろうと思うのです。


ちょっとした社会の仕組みのスキに人がたまたま入ってしまった例で、きっと悪気はないのです。


それにも関わらず、警察が来たら法律違反で危険なことだと叱られるのだと思います。老夫婦は悪いことをしたと謝るでしょう。


もちろん危険なことなので起きていいわけはありません。


しかし、そうはいっても起こりうることだろうと思うのです。



この世に完璧な人などいないのに

起こりうることだと思った論拠は主に3点です。


①社会の仕組みの僅かなスキは完全には埋まることはないから。

②悪意があるかないかに関わらず人は間違えるものだから。

③危険とは言え、即命を落とすほどのことではないから。


SNSで取り上げると「老害だ」「社会の迷惑だ」と批判のコメントが寄せられるのでしょうか?

社会問題としてNHK特集のネタにもなるかもしれません。


では、なぜこの程度のことがニュースになるのでしょうか?

イタリアでは電車が2時間遅れることは普通に起きます。

エジプトではタクシーすら高速道路を逆走します。


国によっては飛行機が予定通り飛ばずに1日空港で待たされることも珍しくはありません。

飲食店のウエイターが間違えたり、集合時間に遅れてきたりは日常茶飯事です。


それでも社会はまわっているし、そこに大きな問題意識も覚えません。


このモヤモヤの正体は一体何なのでしょうか?



不正解を容認する余裕

社会が正解を求めすぎているなぁと思います。不正解を容認できなくなっているのだと。

小さなミスや小さな忘れ物をしただけで、反省文や始末書を書かされたり、大勢の前で謝罪しなければならなかったりと。


もちろん、人の命に関わるミスはあってはならないと思います。それにより大切な人の命を奪われた人の気持ちは察することすらできません。


それでもミスは起こりうると思います。

悪気がなくとも。

準備に怠りはなくとも。


なぜなら、人は私を含め誰もがミスや失敗をするものだからです。人生を振り返ってみた時、20歳以降で未だ一度もミスや失敗をしたことのない人はこの世にいるのでしょうか?


おそらくいないと思います。


自分がミスをするのなら、相手もミスをするのは同じ人として当然なことです。

それでも相手がミスをすると叱責する。批判する。法律違反だと責める。


これは一体何なのでしょうか。



テクノロジー発達による無自覚な歪み

スマホが登場し、誰もがググれるようになると情報がより民主化されたからか、自分が知っていることは相手も知っているだろうと期待します。


今、生成AIがリリースされたと思ったら、連日のように社会で話題になっています。

どのように使うのかの「正解」を無意識に探しています。


こんな今だからこそ、間違ってはいけないこと、忘れたりミスったりすると命取りになることは機械にまかせ、人は間違えるものだとの大前提に立ち返る時なのかもしれません。


なんだか社会が完璧を求めすぎていて、ほんの些細な隙間を埋めることに、それに見合わないほどの膨大な労力を費やしていると感じます。



みなさんも正解がほしいですか?



最後までお読み頂きありがとうございました。


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