「今の若者は声を出して挨拶することもできない」
これは地方のゼネコンの役員さんに言われた言葉です。朝に会っても「おはようございます!」と元気な声で言われるのは稀だと嘆いていました。
こんなことも会社で教えなければならないんですよ、とぼやいていました。
そういえば、社会人デビューした30年前も同じことを言われたのを覚えています。
時が経ってもぼやきの内容は進化しないものですね。
経験の浅い新入社員は挨拶から
新入社員はまずは挨拶だけでもしっかりできるように!とよく耳にします。
社会人としての知識や経験では勝負にならないのだから、という意図が込められているのでしょう。
社会に出た以上は何らかの形で活躍してもらわなければなりませんので。
さらに、営業職等人と多く会う職種に就いているのであればなおさらです。
元気にしっかりした挨拶をすると相手に好印象を与えることができます。その上、これを繰り返すことで自分の自信も育まれていきます。
特にはじめの頃は会う人全員が自分より仕事ができる人達ばかりなので、相手の胸を借りる形になります。気を抜くと気後れするような場面ですね。
このような場合、元気に挨拶をすると、第一印象で相手に気後れせず自分の気持ちにスイッチを入れることができます。その後の会話にスムーズに入っていくことができるのです。
さらに、この場面で重視したいのは、話が終わった後の去り際の挨拶です。
最初の挨拶の1.5倍元気にできるのが理想だと思っています。
中でも、提案を断られた時等は、去り際に元気な挨拶をすることで、自分自身に対して次のアクションに向けて気持ちを切り替える効果が期待できます。
しょぼんと背中を丸めて去ると、そのまま凹んでしまいそうですので。自分の背中を自分の挨拶で押すのです。
このように挨拶には色々な効果を期待できるので、新人の頃は「せめて挨拶くらい」と言われるのでしょう。
挨拶は本来相手への敬意や謝意を表すもの
ここまでは良いのですが、一方で、ベテラン社員にとっての挨拶は少々複雑です。
社会に出てから5年以上、お手本のような挨拶に取り組んできた人は、相手から好感をもってもらえる挨拶を意識しなくともできるようになります。つまり、挨拶の「型」を身につけているのです。
一見すばらしいことのようですが、これは裏を返すと、気持ちを込めずとも気持ちを込めたスマートな挨拶のように見せることができることを意味します。
ここで大切なのは、挨拶は本来は相手への敬意・謝意等を示すものだということです。
本来は、その「思い」こそが重視されるべきことで、決して型の美しさを競うものではないはずなのです。
挨拶の意味からしても、重視されるべきは形より気持ちがこもっているかどうかなのです。
なのに一般的に「良い挨拶」とされるのは、特にこの国では型を指している場合がほとんどです。私も卒業後の新人研修ではお辞儀の角度や速度まで細かく指導されたのを覚えています。
そこに肝心な「相手への敬意」が込められているかよりも型を重んじ教えたがるのです。
実は挨拶以外でも、型や手続き、順番を守ることに重きをおいていることは色々あります。
これは一体何を意味しているのでしょうね。
挨拶までもが商取引の道具化している
最高の挨拶の型を身につけている人の中には、時に美しい挨拶をした後に振り返って舌を出している人も散見します。残念ながら、かくいう僕も心当たりがあります。
百戦錬磨のベテランであれば、この能力を身につけている人は多いはずです。
この現象は、挨拶を商取引のひとつの"道具”として扱おうとする考え方により起きているのだと思います。駆け引きの道具のような。
はじめの挨拶する姿勢と雰囲気で、良い会社から来た仕事のできる人と認識してもらうために挨拶をスキルとして身につけるという考え方です。
こうなるともはや子供の頃、親に「ありがとうとごめんなさいを大きな声で言いなさい!」と挨拶の指導をされたこととは意味が全くずれてくるのですが。
つまり、元気でキレイな型の挨拶をする目的が相手への敬意ではなく営利になっているのです。
確かに、ビジネスにおいては挨拶のみならず、様々な所作や見せ方で少しでも優位な立場を作為的に作ろうする動きがあります。
これは外国の文化であれば、握手の際のグリップの強さや厳しい交渉をする際にコワモテでメガネをかけた人を少しでも多く連れて行くこと等と同じ目的です。
言わば、特定の第一印象(「仕事ができそう!」等)を挨拶というスキルを使い作為的に相手に与えることで、相手の印象をコントロールしようとする試みです。
それでもやはり、挨拶は相手への敬意や感動を表すコミュニケーションの一つとして相手のためにしてほしいと思います。型の美しさを競うのではなくてです。
さも常識であるかのように誰もが当たり前にやっている就職活動の時のリクルートスーツや、IT時代の常識のように言われるデジタルマーケティングのごとく「型から入る」世の中になってほしくないと個人的には願っています。
ただでさえあらゆるコトがコモディティ化している時代です。
人まで誰もが同じになってほしくないと願うのです。とはいえ、なかなか難しい気がしていますが。
常識にとらわれなくても
人それぞれの個性が所作の表現に現れてもよいのではないでしょうか。
変わった会社に変わった人。
あの人変わってるね!と言われる人が増えてくる。
そんな人、そんな会社が少しでも多く存在して欲しいと願っています。
「多様性の時代」と言われて久しいですが、今でも自分にとっての「常識」に叶う人を好む傾向は強いようです。
同調性と同質性が強いこの国では、これがいかに難しいことかは十分に承知しています。
社会人なら挨拶は〇〇のようにしなさい!
まるでロボットのように同じ動き、同じ常識を強制したがるビジネス文化が根強いのがこの国です。
学校教育と同じように、一つの正解を相手にも無意識に期待する人が今なお多いのです。
残念なことに、現在この国は世界でも珍しく、私達の実質賃金は下がり続けているのですが、この要因の一つがこの「一つの正解」「内容よりも型を重視」の文化にある気がしているのですが。
今後の伸びしろが多そうですね。
最後までお読みいただき誠にありがとうございます。
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